62.JR山手線新大久保駅




JR新大久保駅は島式1面2線の高架ホームを有する山手線の駅である。
1番線は外回り池袋、上野方面、2番線は内回り新宿、品川方面が使用する。
代々木から新宿まで併走した中央緩行線と山手線が新宿で分岐して最初の駅であり、
中央本線大久保駅とは約300mの距離しかない。
しかし大久保駅が高架下を利用した駅施設であるのに対し、
新大久保駅は独立した駅舎がある。
改札口はここ1ヶ所で、大久保通りに面して設置されている。
山手線は品川を起点、田端を終点とする20.6kmの鉄道路線である。
上下線の旅客線のほか、上下線の貨物線を有する複々線の路線である。
現在ではこの山手貨物線東北本線と東海道本線を結ぶ貨物線であるが、
この区間を利用して埼京線や湘南新宿ラインの旅客列車が運行されている。
山手線は東海道本線の支線扱いである。
運転系統的には路線としての山手線に加え、
東京から品川までの東海道本線、
東京から田端までの東北本線にそれぞれ専用線を設け、
複線で環状運転が行われている。
東京駅を含めて環状運転されているため、
上り、下りの区別が不可能であることから、
環状線の内側を走る運転方向を内回り、外側は外回りと称する。
東京駅を起点に考えると上野方面を内回り、品川方面を外回りと呼ぶ。
山手線が最初に敷設したのは1881年に設立された日本鉄道で、
日本鉄道は東京から青森までの鉄道線を接することを目的に設立された。
この計画路線が現在の東北本線である。
日本鉄道は更に自社路線と官設鉄道(現・東海道本線)を繋ぐべく、
官設鉄道品川から日本鉄道赤羽までの連絡線を、
1885年3月1日に敷設、路線名を品川線とした。
開業時の中間駅は渋谷、新宿、板橋のみであった。
同年3月16日には遅れて目黒、目白が開業した。
日本鉄道はもうひとつの自社路線である土浦線(のちの海岸線、現・常磐線)からも、
官設鉄道への乗り入れを模索していた。
起点の上野まで乗り入れず、直接品が保線にアクセスするため、
1896年4月1日に日本鉄道田端が開業、
同年12月25日には南千住から分岐して田端にアクセスする貨物専用線を敷設した。
また品川線池袋信号所から田端までの短絡線、路線名豊島線とも建設が開始された。
日本鉄道は1901年8月8日に品川線と建設中の豊島線を統合し、山手線とした。
豊島線として建設された短絡線は1903年4月1日に開業、
これに合わせて池袋信号所が駅に昇格した。
こうして現在の品川から田端までの区間が開業した。
日本鉄道は1906年11月1日に国有化された。
東京駅が開業したのは1914年12月20日で、
日本鉄道時代の東北本線起点駅上野から、
貨物専用線の秋葉原までは1890年11月1日に開業していたが、
1925年11月1日には神田から上野までが開通、
貨物駅だった秋葉原も旅客営業を開始、山手線が環状運転を開始した。
新大久保に駅が出来たのは1914年11月15日で、
甲武鉄道(現・中央本線)の大久保駅が、
1895年5月5日に開業していることから、新大久保となった。
2021年3月28日に駅ビル「Kimchi,Durian,Cardamom,,,」が開業した。
2001年1月26日新大久保駅で、
泥酔してホームから転落したた男性を救おうとして、
線路に飛び込んだ2名が共に犠牲になるという痛ましい事故が起きたが、
その2名の勇気を称えるプレートがホーム階段下に設置されている。
全文は以下の通り、

 カメラマンの関根史郎氏、韓国人留学生の李秀賢氏は、2001年1月26日午後7時15分頃、
 新大久保駅において線路上に転落した男性を発見し、
 自らの身の危険を顧みず救助しようと敢然と線路に飛び降り、尊い命を落とされました。
 両氏の崇高な精神と勇敢な行為を永遠にたたえ、ここに記します。
 
   東日本旅客鉄道株式会社

尚、この文は日本語とハングル語で記されている。


画像 de8062
撮影時刻 2003/06/08 12:51:35

リニューアル前の新大久保駅駅舎。


画像 de8062
撮影時刻 2003/06/08 12:51:35
新大久保駅事件の犠牲者の勇気を称えるプレート。


画像 de8063
撮影時刻 2003/06/08 12:53:39




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