75.JR久留里線久留里駅




JR久留里駅は久留里線の単式1面1線と島式1面2線を併せ持つ、国鉄時代に多く造られた2面3線の駅である。
久留里線は内房線の木更津駅から房総半島のほぼ真ん中にある亀山湖近くの上総亀山までを繋ぐ単線非電化路線で、
オリジナルカラーで塗装されたキハ30、キハ37、キハ38が運行されている。
1912年12月28日に千葉県営鉄道が久留里線を木更津から久留里まで敷設した時に同時に開業し、
1920年4月11日に改正鉄道敷設法が制定され、別表の第48号に「千葉縣木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ經テ大原ニ至ル鐡道」と書かれたことから、
1923年9月1日に千葉県営鉄道久留里線は国に無償譲渡され、1930年には狭軌に改軌された。
この計画は木更津から大原間で結ぶ路線ということで「木原線」と呼ばれ、
1930年4月1日には大原から大多喜までが開業、1933年8月25日には総元まで延伸し、
1934年8月26日には上総中野まで延伸した。
木原線は最終的には久留里線と連結し、久留里線を編入することで木更津から大原間での路線になる予定だったが、
1936年3月25日に久留里線を上総亀山まで延伸したところで計画は挫折した。
上総亀山から上総中野までの区間は山岳路線になるために計画は保留され、とうとう開通しなかった。
木原線大原−上総中野間は私鉄の小湊鉄道と連絡し、木原線は国鉄再建法で第三セクター化され、「いすみ鉄道」となった。
小湊鐵道も五井から安房小湊まで敷設される予定だったが、上総中野まで延伸したところで計画が挫折した。
久留里線は単線のため、タブレット閉塞を行っている路線で、久留里はタブレット交換駅である。
久留里線では木更津から横田、横田から久留里、久留里から上総亀山が閉塞区間となっている。
久留里の街は平安時代末期、平将門の三男頼胤によって築城されたという伝説のある久留里城の城下町である。
実際には上総武田氏の祖となった武田信長が1455年(康正元年)が上総国守護代に任ぜられ、1456年(康正2年)に築城した。
その後、武田信長の子孫である真里谷氏が支配したが、戦国時代に真里谷氏は衰え、代わって里見氏の拠る所となり、
1535年(天文4年)に里見義堯が古久留里城下に新たに久留里城を築いた。
1590年(天正18年)に豊臣秀吉による小田原進軍の命に従わなかったために里見義康は上総の所領を没収された。
この年に徳川家康が関東に入封して久留里城には松平(大須賀)忠政が入城し、城下町整備に尽力した。
その後、江戸時代には久留里藩の藩庁となり、土屋忠直が入城した。
一時期は廃城となったが、譜代大名の黒田直純が入城し、明治維新まで黒田氏の居城となった。
1979年(明治5年)廃城令により久留里城の廃城となった。
現在の久留里城は1979年に城跡に模擬天守が建設された。
久留里城は「雨城」などとも呼ばれている。


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撮影時刻 2003/05/10 10:23:40

JR久留里駅全景。
味のある駅舎である。


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撮影時刻 2003/05/10 10:23:11
リニューアルされた久留里駅


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撮影時刻 2012/07/28 09:12:33
「久留里の生きた水」と書かれた井戸。
久留里は水の美味しい街としても知られ、
街中に井戸が設置され、
自由に組んでいくことが出来る。


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撮影時刻 2003/05/10 11:10:36




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