1044.JR氷見線雨晴駅



JR雨晴駅は相対式2面2線の地上ホームを持つ氷見線の駅である。
番線付番はなく、駅舎側が下り、その反対側が上りが使用、構内踏切で結ばれている。
氷見線は現在の城端線を開業させた中越鉄道が1900年12月29日に高岡から伏見まで部分開業させた。
1912年4月4日には島尾まで延伸、この時に雨晴も同時に開業した。
同年9月19日には氷見まで延伸して全通したが、
もともとは国道415号にほぼ並行して能登半島を横断して七尾線羽咋までの延伸計画があったが実現はしなかった。
中越鉄道は1920年9月2日に国有化され、現在の城端線と高岡から中越までが中越線、中越から氷見までが氷見軽便線となる。
軽便鉄道法廃止により1922年9月2日に氷見軽便線の区間が氷見線に改称、
1942年8月1日に線路名称が改正され、中越線の高岡から城端までを城端線、高岡から伏木までを氷見線に編入した。
駅名は京都から奥州に源義経が岩陰で俄雨が晴れるのを待ったことに由来し、その岩は義経岩といわれている。
駅舎と反対側には難よけの守仏である首切り地蔵尊がある。
そこに以下のような解説がある。

    首切り地蔵尊

  ここにある地蔵尊は、戦国乱世の頃より、「首切り地蔵尊」と伝えられ、
 能登通いの漁船、旅人に海難除けの守仏として尊ばれている。
  天正五年(一五七七年)七月、上杉謙信は、森寺城を攻めるにあたり、
 軍船を連ねてこの沖合にさしかかると、船が少しも進まなくなった。
 謙信の武将である有坂備中はこの不思議こそ魔神の禍に違いないと、
 上陸して松の間を探ったところ、側にあった地蔵がにこにこと笑っていた。
 備中は「魔神の正体見付けたり。」と一刀のもとにその首を切り下ろしたところ、
 船はたちまち前進して目的地に向かうことができた。
  なお同年九月、謙信は七尾城を攻略し、能登の地一帯をすべて占領した。
  人々は今も備中の「首切り地蔵尊」としてこの話を今に伝えている。
                         (大田村史から)

                    高岡市商業観光課
                      TEL 二〇−一三〇一 


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撮影時刻 2008/07/26 16:48:40

雨晴海岸の様子。


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撮影時刻 2008/07/26 16:43:28
首切り地蔵尊。


画像 dd10938
撮影時刻 2008/07/26 16:53:35




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