1083.JR日豊本線行橋駅



JR行橋駅は島式2面4線と3番線を切り欠いた計2面5線の高架ホームを有する日豊本線の駅である。
またJR九州から転換された平成筑豊鉄道田川線が接続、起点駅となっている。
1番線は日豊本線上下線、2番線は日豊本線上り、3番線及び4番線は日豊本線上りが使用、
3番線を切り欠いて設置された5番線は平成筑豊鉄道田川線が使用する。
平成筑豊鉄道のホームとの間に構内改札が設置されている。
高架下に駅機能が集約され、画像は西口である。
現在の日豊線は小倉から重岡までの区間は豊州鉄道とそれを合併した九州鉄道によって敷設、
九州鉄道国有化後に宮崎線として延伸開業していき、佐土原から宮崎までは宮崎県営鉄道が敷設した区間を編入した。
国分(現・隼人)から鹿児島までは官設鉄道鹿児島線として敷設、全通後に日豊本線となった。
1895年4月1日に九州鉄道が小倉から行事までの区間を敷設した。
田川地区で産出される石炭の輸送を目的に設立された豊州鉄道によって、
1895年8月15日に行橋から伊田(現・田川伊田)までの区間を敷設、この時に同時に開業した。
同年8月25日に行事駅を廃止して豊洲鉄道行橋駅に終点を変更した。
1897年9月25日には行橋から長洲(現・柳ヶ浦)まで延伸開業した。
小倉から鹿児島までの区間が全通したのに伴い、1932年12月6日にこの区間が日豊本線となった。
一方、現在の平成筑豊鉄道田川線を敷設した豊洲鉄道は、
1896年2月5日に伊田(現・田川伊田)から後藤寺(現・田川後藤寺)まで延伸、
1987年10月20日には後藤寺(現・田川後藤寺)から宮床(現・糸田)、及び貨物線の豊国までを敷設したが、
1901年9月3日に九州鉄道と合併した。
さらに1907年7月1日には九州鉄道は鉄道国有法により国有化された。
1909年10月12日の線路名称制定により小倉から行橋を経由して柳ヶ浦までの区間が豊州本線、
行橋から伊田、後藤寺を経由して添田までの区間が田川線となった。
伊田から添田までの区間は小倉鉄道によって敷設された城野から河原までの添田線、
日田から彦山に向けて延伸した彦山線、田川線の延伸区間として西添田から延伸区間と彦山線を編入した日田線、
それらを再編して1960年4月1日に城野から後藤寺を経由して夜明までと統合されて日田彦山線となった。
行橋から田川までの田川線は戦後の石炭の出荷量の減少や炭田の閉鎖により、
1987年2月3日に国鉄第3次特定地方交通線として廃止が承認された。
それを受けて1989年4月26日に第三セクター鉄道の平成筑豊鉄道が設立、
直方から田川伊田までの伊田線、金田から田川後藤寺までの糸田線とともに転換された。
社名決定日が1989年1月7日の昭和天皇が崩御、年号が「平成」に改められた日だったため、
公募で予定していた社名から急遽予定を変更して「平成筑豊鉄道」となった。
現在の高架線と駅舎が完成したのは1999年8月28日である。
西口にはC11型蒸気機関車の動輪が飾られていて、
碑文には以下のように書かれている。

   碑文

 明治28年、日の地に行橋駅が営業を開始して以来、
 機関区、車掌区、客貨車区、保線支区、信通支区等の
 業務区間が開設されてここ行橋は京築地方の鉄道輸送の一大拠点として
 発展の一途を辿り、大いに活況を呈してきた。
 ここに展示している動輪は、C11型蒸気機関車の第1動輪、第2動輪の2軸である。
 かつて、昭和8年頃から昭和47年にかけて一般に「Cのチョン、チョン」の愛称で呼ばれ、
 小型ながら力量間あふれるスタイルで、スピード感とプロポーションを持ち合わせており、
 約40年に亘り、九州のどの線区でもその勇姿を見ることができた。
 行橋機関区にも数多く配属され、日豊線や田川線で活躍したが、
 電化、ディーゼル化の進展とともに昭和47年3月に九州から姿を消した。
 このたび、日本鉄道OB会行橋支部創立50周年記念事業の一環として、
 思い出のこの地に動輪を展示し後世に残すこととしたものである。

  平成16年8月26日 日本鉄道OB会 行橋支部


画像 dd11727
撮影時刻 2008/10/18 14:31:57

JR行橋駅東口。


画像 dd11729
撮影時刻 2008/10/18 14:34:15
西口にあるC11型蒸気機関車の動輪。


画像 dd11728
撮影時刻 2008/10/18 14:32:27
5番ホームにある平成筑豊鉄道行橋駅。


画像 dd11730
撮影時刻 2008/10/18 14:52:28




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