1396.一畑電車一畑口駅



一畑電車一畑口駅は単式1面1線と島式1面2線の計2面3線の地上ホームを有する北松江線の駅である。
一畑電鉄はもともと一畑薬師への参拝線として敷設されており、
途中駅だったこの駅から分岐して松江しんじ湖温泉方面に向かっていく線形になっている。
戦時中に一畑方面が廃止され、結果的にこの駅でスイッチバックする線形となった。
駅舎に隣接いる単式ホームの1番線は松江しんじ湖温泉方面が使用、
島式ホームの2番線は電鉄出雲方面が使用、3番線は現在使われていない。
単式ホームと島式ホームは構内踏切で繋がっているが、遮断機や警報器はない。
一畑電鉄は現在の山陰本線に当たる鉄道が1910年に米子から出雲今市まで延伸のを受け、
出雲今市から一畑薬師までを結ぶ鉄道として1912年4月に一畑軽便鉄道の名でが設立された。
翌年から建設が始まり、1914年4月29日に出雲今市から平田までが部分開業した。
その後も延伸工事を続け、1915年2月4日に一畑までが開通した。
一方で出雲大社へのアクセス線も計画され、国鉄大社線との競合を避けるために
川跡から分岐する形で敷設されることになり、また路線の電化と同時に工事が進められ、
1925年7月には社名を「一畑電気鉄道」に変更し、
1927年10月1日に既設線である出雲今市から一畑までの区間が完成、
1928年4月5日に小境灘から北松江の区間が電化区間として延伸開業、
1930年2月2日には念願だった川跡から大社神門まで電化延長した。
しかし戦時中の1944年11月16日には小境灘から一畑までの区間が不要不急路線として営業休止、
戦時輸送を担っていた名古屋鉄道に供出されそのまま廃線となった。
戦後の1954年5月1日には出雲鉄道を買収して立久恵線、
同年12月1日には島根鉄道を買収して広瀬線とした。
しかし1960年6月20日には広瀬線が廃止、
1964年7月19日に水害で被災した立久恵線も翌年2月19日付で廃止された。
2006年4月1日には一畑電気鉄道は持ち株会社に移行、
鉄道部門は新設された一畑電車が継承した。
開業は1915年2月4日に一畑まで延伸開業した時に途中駅として開業した。
開業時の駅名は“小境灘”だったが、戦時中にここから一畑までが休止されたことを受け、
1952年10月1日に“一畑口”に改称された。
戦時中の物資供出で休止された一畑口から一畑までの区間は1960年4月26日に正式に廃止された。
漫画家の水木しげる氏に妖怪の話を聞かせたといわれる景山ふささんに関する掲示物がある。

   ようこそ一畑口駅へ

  少年時代の水木しげる先生に、お化けや妖怪の世界を語って聞かせ、
 後年の妖怪漫画家・妖怪研究家への素地を作った「のんのんばあ」こと、
 景山ふささんは熱心な一畑薬師の信者でした。
 一九二六年、のんのんばあは四歳のしげる少年を連れて一畑薬師にお参りしています。
  かつて一畑薬師にお参りするには、陸路を辿るか、
 宍道湖を船で渡るしか方法がありませんでしたが、
 一畑電気鉄道株式会社の前身である一畑軽便鉄道株式会社が鉄道を敷設し、
 大正四年(一九一五)二月四日、
 出雲今市(現電鉄出雲駅)から一畑薬師のふもと駅である一畑間が全通し、
 蒸気機関車によって多くの参拝客が輸送されました。
 ここ一畑口駅は当時、「小境灘駅」と呼ばれ、松江と結ぶ汽船とも連絡し、
 一畑薬師参拝の要衝として栄えました。
  昭和二年(一九二七)に電化、昭和三年(一九二八)には小境灘から北松江まで延伸され、
 これに伴って当駅に電車が到着すると先頭車両が入れ替わり、
 運転手も前後反対の運転席へ移動する、全国でも珍しい平地のスイッチバックが誕生しました。
  当駅の【目玉おやじ】が指している先は、ここから六キロ先の一畑薬師です。
 ここから各所に設置された、目玉おやじのブロンズ像が当時の道筋を示しています。
  それでは、あなたを「目のお薬師さま」へご案内しましょう。

    平成二十四年四月八日
                    のんのんばあまつり実行委員会
                    一畑電気鉄道株式会社


画像 dd20358
撮影時刻 2014/05/25 13:49:20



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