163.JR内房線木更津駅




JR木更津駅は内房線の駅であり、また非電化単線の久留里線の起点駅でもある。
島式2面4線のホームを有し、1番線から3番線が内房線、4番線が久留里線のホームとなっている。
4番線は久留里線専用のため架線設備はなく、電車の進入、停車は不可能である。
久留里線で使用されるキハ30形、キハ37形、キハ38形の車両基地である幕張車両センター木更津派出があり、
また側線には留置線もあって113系などが留置されていたりする。
1912年8月21日、国鉄木更津線が姉崎から木更津まで延伸した時に同時に開業した。
木更津線の同年3月28日に蘇我から姉崎までが開業していた。
同年12月28日には千葉県営鉄道久留里線が木更津から久留里まで敷設された。
敷設された当時は軌間762mmの軽便鉄道であった。
木更津線は1915年1月15日には上総湊、1916年10月11日には浜金谷、1917年8月1日には安房勝山、
1818年8月10日には那古船形まで毎年順調に延伸した。
1919年5月24日に安房北条(現・館山)まで延伸した時に、路線名を北条線に変更した。
1920年4月11日に改正鉄道敷設法が制定され、別表の第48号に「千葉縣木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ經テ大原ニ至ル鐡道」と書かれたことから、
1923年9月1日に千葉県営鉄道久留里線は国に無償譲渡され、1930年には狭軌に改軌された。
久留里線はその後、1936年に上総亀山まで延伸したが、結局その先、上総中野までは延伸されず、現在に至っている。
1929年4月15日には北条線は房総線(現・外房線)に編入され、房総半島を一周する路線となったが、
1933年4月1日に安房鴨川で東西に分離され、蘇我から木更津を経て安房鴨川までの房総半島西側を房総西線とした。
房総西線は1972年7月15日に内房線と改称される。
画像は西口で、木更津そごうの撤退で寂れてしまったが、今は複合商業施設「アクア木更津」となっている。
西口より徒歩約10分のところにある證誠寺は昔話の「證誠寺の狸囃子」の舞台として有名である。
證誠寺は浄土真宗本願寺派に属する寺で山号は護念山である。
「證誠寺の狸囃子」はいつ頃成立したかは不明だが、證誠寺に伝わる伝説である。
證誠寺の当たりはかつて竹藪が鬱蒼と茂る薄気味悪い場所であり、一つ目小僧やろくろ首などの妖怪が出るという場所だった。
しかしそれはここに住む狸たちの仕業であった。
ある時、新しくやってきた證誠寺の和尚は妖怪を見ても全く驚かなかった。
そこで狸たちは夜中に腹鼓を打って和尚を驚かそうとしたが、起きてきた和尚は三味線を弾いて狸たちに対抗した。
狸と和尚の囃子合戦は毎晩続けられたが、4日目の晩に狸たちの親分格の大狸が腹を破って死んでいた。
不憫に思った和尚はこの大狸を弔い、狸塚を立てたという。
木更津駅の駅メロディには童謡「証城寺の狸囃子」が使用されている。
また西口の駅前には狸のオブジェが設置してある。
木更津はテレビドラマや映画にもなった「木更津キャッツアイ」の舞台にもなり、また最近では氣志團の出身地としても有名になった。
木更津市のホームページには「江戸時代、幕府から特権を与えられた木更津船という五大力船が江戸を往来。」と書かれている。
木更津の地名には、「古事記」や「日本書紀」に登場する日本武尊(やまとたける)に由来する。
景行天皇に東征を命じられた日本武尊一行は走水から上総に船で渡ろうとした時、
海神の怒りを買って海が荒れ狂い、難破しそうになってしまった。
そこで日本武尊と同行していた弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は自ら海に身を投げて海神を慰め、日本武尊一行は無事上総に渡ることが出来た。
弟橘比売命は身分の低さから日本武尊の正室ではなかったが、日本武尊が一番愛していて、
上総の地に上陸した日本武尊は太田山に登って海を見下ろし、何時までも弟橘比売命を偲んでこの地を去ろうとしなかったという。
そのためこの地を「君不去(きみさらず)」と呼ぶようになり、それが今の木更津の語源になったという。
余談だが、弟橘比売命の亡骸が漂着した場所が「姉ヶ崎」、衣の袖が漂着した場所が「袖ヶ浦」になったという。


画像 de2485
撮影時刻 2001/12/01 08:52:12

JR木更津駅東口。


画像 dd07758
撮影時刻 2007/02/24 11:03:59
木更津駅西口の狸のオブジェ。


画像 dd07759
撮影時刻 2007/02/24 11:09:27




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