450.JR総武本線成東駅
450.JR総武本線成東駅
JR成東駅は単式1面1線と島式1面2線、更に単式ホームに切欠きを加えた、
計2面4線の地上ホームを有する総武本線の駅であり、また東金線の終点でもある。
単式ホームは1番線に付番、島式ホームは2番線、3番線に付番される。
総武本線は各番線固定方面はなく、上下線に使用される。
1番線単式ホームを切り欠いた0番線は東金線専用である。
東金線の一部は3番線を使用する場合もある。
総武本線は東京から銚子までの幹線であり、錦糸町から御茶ノ水までの支線、
また小岩から分岐して金町、越中島貨物駅を結ぶ貨物専用線もある。
東京から錦糸町までは快速線のみで、錦糸町から千葉までは複々線となっており、
緩行線と快速線と別々の線路が敷設され、快速線は停車駅のみホームが設置されている。
千葉からは佐倉までは複線、佐倉から銚子までは単線となっている。
総武緩行線は中央緩行線と直通運転されていて、一般的にこの路線を「総武線」と呼び、
電車の案内表示も「中央・総武線」と表示されている。
旅客案内では千葉から銚子までの区間を「総武本線」とすることもある。
総武快速線は千葉から銚子本線に直通するほか、内房線、外房線にも乗り入れ、
また佐倉から成田線にも乗り入れている。
官設鉄道や現在の東北本線などを敷設した日本鉄道などの開業により、
全国的な鉄道敷設ブームが起こり、千葉県内でも佐原や成東の名士が名乗りを上げ、
本所(現・錦糸町)から佐原までを武総鉄道が出願、
本所(現・錦糸町)から銚子までを武州鉄道が出願した。
しかし江戸時代から海運が発達、また利根川開削などもあり、両社とも却下された。
競合した両社は合併を協議、1889年1月に総武鉄道が設立された。
社名は下総国、上総国の両総と武蔵国を結ぶ鉄道の意味で名付けられた。
1894年7月20日に市川から佐倉の区間が開業した。
同年12月9日には市川から本所(現・錦糸町)まで延伸、
1987年5月1日には佐倉から成東まで延伸、
この時終着駅として開業した。
同年6月1日に成東から銚子まで延伸された。
1904年4月5日には本所から両国橋(現・両国)が延伸、
この時、東武鉄道亀戸線が亀戸から両国橋まで乗り入れてを開始、
この乗り入れは1910年3月27日まで続いた。
1906年3月31日に公布された鉄道国有法により、
総武鉄道は1907年9月1日に国有化された。
1909年10月12日の線路名称制定により総武本線となった。
1911年11月1日には東金線が東金から成東まで延伸開業した。
総武本線は1932年7月1日に両国から御茶ノ水まで延伸した。
総武緩行線の区間が全通、この時点ではお茶の水が起点となった。
成田空港開業に合わせて東京から成田に直通路線が計画され、
錦糸町から千葉までを複々線化、
東京から錦糸町まで地下トンネルを敷設することとされた。
1972年7月15日に東京から錦糸町までの区間が開業、
起点を御茶ノ水から東京に変更、錦糸町から御茶ノ水の区間は支線となった。
東京から銚子までは120.5km、錦糸町から御茶ノ水は4.3km、
旅客線は全線直流電化されている。
2008年3月、外壁をレンガ造りの洋風にリニューアルした。
太平洋戦争末期の1945年8月13日に空襲に遭い、
弾薬を積んだ貨物に引火し、爆発して消火に当たっていた将校が死亡した。
この事件に関して「礎」という大きな文字が彫られている石碑が立っていて、
その脇には木製の説明書きがあり、以下のように書かれている。
礎について
昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、
成東町構内下り一番線に停留中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分火煙を発した。
之を認めた国鉄職員十五名将兵二十七名は、
被害を最小限度に止めようと機を失せず身を挺して貨車の隔離消化に努め、
一方旅客及び町民を避難させたが、
必死の検討も空しく十一時五十六分弾薬は遂に爆発して全員悉く壮烈な最後を遂げ、
平和の礎と化しました。
昭和三十二年八月十三回忌に当り、
その功績を称え、町民及び鉄道職員を初め多数の方々の御支援によって茲に礎の碑を建立せられました。
もうひとつ駅の脇にも石碑が建てられていて、
石碑の脇には蒸気機関車の動輪も設置されている。
石碑には大きく「魁」と書かれ、その下に以下のように説明書きが彫られている。
わが両総の地に世に魁(さきがけ)て鉄道施設の狼煙をあげ
生涯をこの事業に捧げた人は実にわが成東町の先覚安井理民氏である。
氏は安政六年(一八五九年)三月わが町の素封安井家に生まれ
二十才で既に戸長として町政を担った青年戸長の夢は常に大きかった。
やがて県下に鉄道を敷き交通運輸の便を計り
郷土の一大発展を図ろうとの大理想を抱き
明治十九年決然立ってその運動にはいった。
まず東京神田に創立事務所を設け
本町の塚本正脩氏を事務長に推し
相扶け相謀り各地の有力者を歴訪しては参加を需め
或は各種資料の調査研究に
或は誓願に或は資金集め東奔西走の日々が続いた。
かくて釆後七年有餘の血みどろの活動は遂に家産を傾け
あまつさえ病を得て再び起たず明治二十七年二月十六日可惜奮闘の生涯を閉じた。
享年三十有六才。
しかしその事業は後人に受継がれ
明治三十年六月佐倉銚子間の開通を最後に
両総を縦断する総武鉄道全線の完成を見るに至り
氏の点じた灯の光は皓々と輝き亘ったのである。
わが町は茲に記念碑を建て以て永く氏の功績を称えんとするものである。
昭和四十六年二月十六日
成東町
画像 dd25567
撮影日時 2020/06/07 17:03:29
リニューアル前の駅舎。 画像 de9260 撮影日時 2005/02/26 09:42:50 |
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