712.JR東北本線白石駅



JR白石駅は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の計2面3線の地上ホームを有する東北本線の駅である。
ホームの南側には待避線と留置線が設置されている。
1887年12月15日に東北本線は日本鉄道によって郡山から塩竈まで延伸開業し、この時同時に開業した。
東北本線は郡山から仙台まで開業した時に資材運搬のために仙台から塩竈まで同時に開通させた。
この塩竃は後に塩釜線塩竈港駅となるが、塩釜線岩切−塩釜間は1994年4月1日に休止、1997年4月1日に廃止となった。
1906年11月1日に日本鉄道は国有化され、1909年10月12日の線路名称制定で東北本線の所属となった。
白石駅構内には駅名由来が以下のように書かれている。

 「白石」という地名は、かつてこの地方に「神石白石」という純白で光沢のある大きな石が産出されたからという説や、
 アイヌ語で“石がたくさんあるところ”という意味の「シュラウシ」からきているという説、
 また、かつてこの地方を割拠していた白石氏という豪族の名前を由来するなど、諸説があります。
 白石は、慶長七年(一六〇二)、伊達政宗の第一の家臣であった片倉小十郎影綱が入場して以来、
 仙台藩の南の要衝として、また軍事拠点都市として発展してきました。

 この地名の由来を受けて、明治二十年(一八八七)十二月十五日、
 東北本線が当地に開通した時、白石駅が開業しました。

白石駅には開業当時に設置されたという赤煉瓦の油庫があった。
また「片倉小十郎景綱と白石」という掲示物には以下のように書かれている。

 片倉小十郎景綱は戦国時代末に東北が生んだ一代の英雄伊達政宗が最も信頼をおいた知勇兼備の名称である陰綱は
 出羽国長井庄小松(山形県川西市)に生まれ父は景重といい米沢市郊外の成島八幡社の神官だった。
 しかし父母と早く死別し異父姉喜多(少納言)によって養育された伊達輝宗は喜多や小十郎の優れた才能を認め
 梵天丸(政宗)の側近とし訓育をまかせた
 天正十二年政宗は十八歳で伊達家十七代の当主となってから政宗のあるところ常に景綱が行動をともとした
 人取橋の激戦に始まって会津摺上原の戦闘で南奥の強豪芦名氏を亡ぼすまでその間作戦参謀とし
 また野戦の部隊長として独眼竜政宗の東北制圧をたすけた
 天正十八年政宗は小田原に参陣し関白秀吉に臣下の礼をとり伊達家の保全と本領を認められたが
 その背後の外交交渉は景綱の手腕によるものが大きかった
 慶長七年白石城主に任じられ仙台藩南境の警備を一任された
 入城以来藩境首尾に耐え得る強い家臣団の編成城の整備城下町の白石の町作りなどに全力を傾けた
 元和元年五十九歳で死去この地に葬られた子孫がうけついで明治維新に至っている
 白石市は文字通り片倉景綱が作った城下町であり誠実で律儀な彼の精神が
 いまでも市内を流れる清流とともに市民の間に根強く生きている


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撮影時刻 2005/03/12 12:57:02



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