1278.JR高山本線美濃太田駅



JR美濃太田駅は島式2面4線の地上ホームを有する高山本線の駅である。
橋上駅舎化されていて、駅舎は南北自由通路を兼ねている。
また国鉄越美南線を引き継いだ長良川鉄道も単式1面1線のホームを有し、
南北自由通路上に専用の階段を有し、階段を降りたところに改札機能の窓口がある。
越美南線は元は国鉄の路線だったが、分割民営化直前の1986年12月11日に廃線になった。
またJRも高山本線のほかに美濃太田から中央本線多治見までを結ぶ太多線の終着駅でもある。
画像南口で1番線、2番線は高山本線上り、3番線、4番線は高山本線下りが使用、
太多線は列車によって使用するホームを変更する。
高山本線は鉄道省が高山線として1920年11月1日に岐阜から各務原までを敷設、
その翌年の1921年11月12日に美濃太田まで延伸してその時に終着駅として開業した。
1922年11月25日には下麻生まで延伸、
その後も延伸を続け1933年8月25日には飛騨小坂まで延伸した。
一方、富山方面からは飛越線として0927年9月1日に越中八尾までが部分開業、
その後も延伸を続け1933年11月12日に坂上まで延伸し、
1934年10月25日に飛騨小坂と坂上が繋がり、飛越線が高山線に編入されて高山本線となった。
太多線は1928年10月1日に広見(現・可児)から延伸して接続、
現在の長良川鉄道の越美南線は1923年10月5日に美濃町(現・美濃市)まで部分開業した。
その後も延伸を続け1934年8月16日には現在の終着駅である北濃までの延伸が完了した。
北陸本線越前花堂からは越美北線が敷設され、最終的には繋がる予定だったが、
その前に特定地方鉄道線に指定されてしまい、越美南線は第三セクターの長良川鉄道が引き継いだ。
美濃太田は「小説神髄」で知られる明治期の小説家坪内逍遙の生誕地であり、
南口には銅像が設置され、略歴には以下のように書かれている。

     坪内逍遙略歴

  逍遙こと、坪内雄蔵(幼名)は安政六年五月二十二日(一八五九年)
 美濃国加茂郡大田村(現美濃加茂市太田本町太田小学校西北端)の
 尾張藩代官屋敷で父坪内平右衛門(後に平之進と改む)と母ミナの子として生まれた。
 折しも幕末維新の風雲急を告げ、中山道は人馬の往来激しく、
 陣内での父母の養育、手習を受け成長した。
 明治九年(一八七六年)県選抜生として上京、開成学校(現東京大学)に入学、
 十六年同校文学部本科を卒業するや東京専門学校(早大前身)の講師(後に教授)となり、
 教鞭のかたわら『当世書生気質』『小説神髄』を著して明治新文壇の先達となった。
 又逍遙は文人にとどまらず、文芸運動を指導し、演劇、新国民劇の創造改善にも心血をそそぎ、
 明治三十二年には文学博士の学位を受け、小学校国語読本全八巻などを刊行。
 かくして明治、大正、昭和の三代にわたる我が国文化の偉大な教導者として仰がれた。
 晩年の逍遙は熱海に双柿舎を開き住み宿願の『シェークスピヤ全集』の翻訳を完成、
 昭和十年(一九三五年)二月二十八日、七十七才の天寿を全うした。
 早稲田大学葬がおこなわれ、墓は熱海の海蔵寺にある。
 資産はすべて寄付され、数々の偉業は早稲田大学記念博物館に納められた。
 逍遙が最後にここ誕生の地を訪れたのは大正八年(一九一九年)の晩春。
 婦人セイを伴い、木曽川の清流にたたずみ、
 虚空蔵の大椋をなでて懐旧の情にむせんだ郷土が生んだ偉大な人物である。
  この偉業を顕彰するため、逍遙誕生百三十年に併せ、
 美濃加茂ライオンズクラブ結成三十周年記念事業として建立するものである。


画像 dd18242
撮影時刻 2012/05/20 11:37:41

JR美濃太田駅北口。


画像 dd18241
撮影時刻 2012/05/20 11:31:30
南口の坪内逍遙博士之像。


画像 dd18243
撮影時刻 2012/05/20 11:40:25




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