1542.JR東海道本線彦根駅



JR彦根駅は相対式2面2線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
画像は東口で、近江鉄道本線も乗り入れている。
近江鉄道は島式1面2線の地上ホームを有している。
1987年5月に橋上駅舎化される前は、
国鉄及びJR西日本と改札を共用しており、
東海道本線2番線ホームが島式ホームとして反対側を3番線、
現在の島式ホームの片側を4番線とする相対式ホームだった。
駅舎の橋上化とともに改札を分離、
近江鉄道の現在の改札はかつての中間改札をそのまま流用している。
現在の東海道本線は官設鉄道として敷設されたもので、
1889年7月1日に関ヶ原から馬場(現・膳所)まで延伸した時、
同時に中間駅として開業、1895年4月1日に東海道線、
更に1909年10月12日に東海道本線の名称が制定された。
1898年6月11日に近江鉄道が彦根から愛知川まで開業、
この時彦根は起点駅として開業、
1931年3月15日に米原まで延伸され途中駅となる。
近江鉄道は車両基地を併設しており、
保存されていた旧型機関車や車両を「近江鉄道ミュージアム」として公開、
しかし施設の老朽化から2018年12月8日に閉館された。
西口には「彦根縁起(神代〜現代)」という石碑があり、
そこには以下のように書かれている。

  「古事記」の冒頭には、太陽を神とする天照大神(伊勢神宮)が、
 国生みの神である伊邪那岐の命、伊邪那美の命(多賀神社)の御子として生まれたと記されており、
 また天照大神の御子である天津日子根の命と活津日子根の命の兄弟神が、
 悠久の昔にこの彦根の地に鎮座して国造りをしたとするのだが、
 この地方に伝承されている神話であります。
  奈良時代、日本最古の法典「大宝律令」を完成させた藤原不比等とその子藤原房前が、
 永年彦根の地を治めたことにより、
 平城京にも劣らぬ地方都市がこの彦根の地に造営されていたのであります。
  平安時代中期、末法思想の広がりと共に、全国各地に観音信仰が生まれ、
 現在彦根城のある彦根山(彦根寺)には、
 金の亀に乗った、一寸八分(約六センチメートル)の観音さまがおられたことから、
 別名を金亀山とも呼び、後に築城された彦根城は、金亀城とも呼ばれております。
 また、当時、霊験あらたかな観音霊場として、彦根山参拝ブームを巻き起こし、
 京都方面からの参詣道は、巡礼街道と呼ばれ、
 現在も通称として残り往時を偲ばせております。
  江戸時代、藤原鎌足の子孫である井伊家が彦根に入り(入府)、
 初代彦根藩主となった井伊直政公(騎乗姿)は、
 現在静岡県引佐町井伊谷にて生を受け、十五歳で徳川家康に見いだされて以降、
 武田勝頼との戦いを初陣に、関ヶ原の戦いなどに数々の大功を立て、
 慶長六年(一六〇一年)、一八万石を賜って佐和山城主となりますが、
 関ヶ原の戦いで島津軍から受けた鉄砲傷がもとで四十一歳の若さで亡くなりました。
  彦根城と城下町は、直継公(途中分家)から二代藩主直孝公にかけ、
 二十年の歳月を経て完成したのでありますが、
 井伊家中興の祖と言われる直孝公の大坂冬の陣、夏の陣の大功により三十五石となり、
 これより以降、近江国の政治、経済、文化の中心地として永く栄えることとなったのであります。
 また、東京世田谷の豪徳寺が井伊家の菩提寺となったのも直孝公の時からであります。
  彦根の地は誰れ言うこともなく、「一に大老、二に佐和山城殿」として、
 井伊直弼と石田三成公を、彦根が輩出した偉人として市民の敬慕となり象徴となっているものであります。
  井伊家が彦根のまちを開き、平成十三年(二〇〇一年)が、丁度四百年目の年となり、
 「彦根開府四百年」記念事業の一つとして、彦根市民有志の手により、
 本石碑が建立されたのであります。


画像 dd21706
撮影時刻 2015/06/13 09:15:14

JR彦根駅西口。


画像 dd21721
撮影時刻 2015/06/13 10:44:18
西口にある井伊直政公像。


画像 dd21720
撮影時刻 2015/06/13 10:42:24




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