448.JR東金線東金駅



JR東金駅は東金市にある東金線の駅であり、東金線の中では最も大きな駅である。
単線の東金線の中で上下線のすれ違いが行える2面2線の相対式ホームの駅である。
千葉発の成東行きは総武本線経由と外房線、東金線経由とがあり、外房線からの直通もあるが、
基本的には単独で大網から成東までを運行している。
東金駅が開業したのは、1900年に房総鉄道によって大網−東金間が敷設された時で、
房総鉄道は現在の外房線の千葉−大原間を敷設させた鉄道会社である。
東金線は地方交通線に分類される直流電化の単線路線で、起点終点を含めて5駅の13.8kmの短い路線である。
東金線は総武本線と外房線を結ぶ短い路線であるが、その成立はふたつに分かれている。
大網から東金までは房総鉄道によって1900年(明治33年)6月30日に開業した。
房総鉄道は現在の外房線を施設した鉄道会社で、
1896年(明治29年)に蘇我−大網間を開業させていた。
更に1897年(明治30年)4月には大網から一ノ宮(現・上総一ノ宮)間で延伸、
1899年(明治32年)には大原まで延伸していた。
房総鉄道はもともと馬車鉄道を施設するつもりで千葉の有力者によって作られた会社で、
馬車鉄道としての免許申請は蘇我−大網−東金間と大網−茂原間である。
つまり現在の東金線の一部が本来は本線として考えられていた。
しかし馬車鉄道から蒸気機関に変更した段階でまず蘇我−大網間の申請を行った。
そしてそのまま房総半島を南下していく形で延伸していき、大網−東金間は房総鉄道の支線として位置づけられていった。
それでも1900年には東金までの区間が開業した。
この3年前の1897年(明治30年)には総武鉄道によって、
既に開業していた本所(現・錦糸町)−佐倉間の現在の総武本線が成東まで延伸しているが、
東金から成東までの延伸は房総鉄道の時には計画されていなかった。
何故ならば1896年(明治29年)に蘇我−大網間が開業した時に、
資材運搬用の仮線として建設された千葉−蘇我間が営業運転され、
1902年(明治35年)には両国橋(現・両国)から直通運転が開始されていたため、
敢えて成東へアクセスする意味を見いだせなかったのである。
しかし房総鉄道は1907年に公布された鉄道国有法により買収され、外房線もろとも官設鉄道に編入された。
同じく国有化された総武鉄道の成東までの延伸は国有化後に達成される。
国有化の2年後の1909年(明治42年)10月12日には国有鉄道路線名称が決定され、
ここで初めて“東金線”の名称が決定、1911年(明治44年)11月1日には東金−成東間が延伸開業し、
ここで初めて東金線は全線開通することとなった。
東金線は以上のような歴史を辿り、国鉄の分割民営化によってJR東日本に引き継がれるが、
この路線に付随するもう一つの歴史がある。
それは1926年(大正15年)から1961年(昭和36年)まで、
東金駅から現在の千葉県山武郡九十九里町にあった片貝駅までの8.6kmの区間に、
九十九里鉄道が施設した鉄道路線が存在していたことである。
この会社は1923年(大正12年)12月21日に九十九里軌道として設立され、
当初は軌道法による軌道、つまり路面電車を運行していたが、
後に鉄道に変更し、1932年(昭和7年)3月24日には九十九里鉄道に社名変更した。
駅数は起点の東金駅を含めて7駅で、終点は上総片貝駅である。
路線区間は不明だが、たぶん現在の県道25号東金片貝線に沿って施設されていたものと推測できる。
軌間は762mmのナローゲージで、非電化単線で施設された。
車両はガソリンカーと呼ばれるもので、
運転台が進行方向にしかついておらず、始点終点で転車台による方向転換が必要だった。
片貝は漁師町で、夏季には海水浴客で賑わったりもしたが、
やがて車社会の到来で集客力を失い、またゲージの違いから国有化もされず、
1961年(昭和36年)2月28日で廃止され、
この会社はバス事業に注力していくことになる。
現在も東金駅を中心にバス路線を抱え、
小湊鉄道の子会社として同社と同じ塗色のバスを運行している。


画像 de9239
撮影時刻 2005/02/26 08:45:34



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