639.JR東海道本線小田原駅



JR小田原駅は東海道本線及び東海道新幹線の駅であり、また小田急小田原線と箱根登山鉄道の駅でもある。
また伊豆箱根鉄道もホームを有し、全ての鉄道会社で番線が通し番号になっている。
伊豆箱根鉄道が1番線、2番線、東海道本線が3番線から6番線、小田急、箱根登山鉄道が7番から11番線、
12番線が欠番で東海道新幹線が13番線、14番線を使用する。
2003年3月30日に橋上駅舎が完成したが、画像はまだ駅舎が完成する前の小田原駅東口である。
2005年6月25日に駅ビルが完成し、複合商業施設“小田原ラスカ”が入居した。
1番線、2番線は伊豆箱根鉄道大雄山線の始発駅であり、大雄山線は小田原から大雄山までを結ぶ9.6kmの路線である。
頭端式2面2線のホームを有し、改札口はホームと同じ1階に設置されている。
駅舎自体も独立しており、駅ビルが完成する前に既に伊豆登山鉄道大雄山線の駅舎は完成していた。
JR東日本東海道線は島式2面4線のホームを有し、当駅で始発終着する設定にも対応できるようになっている。
またJR貨物の使用する貨物線2本と留置線2本が並行して走っている。
小田急小田原線と箱根登山鉄道は島式2面3線と頭端式1面1線の計3面4線の地上ホームを有し、東海道線と並行してホームが設置されている。
11番線の頭端式ホームは7番線を切り欠きして設置されている。
箱根登山鉄道は小田原から強羅までの路線だが、現在は箱根登山鉄道の車両は箱根湯本から強羅までの区間で営業運転されており、
小田原から箱根湯本までは小田急車の乗り入れが行われている。
東海道新幹線は他の路線と違い、相対式2面2線の高架ホームを有し、中に2本の通過線が設置されている標準的新幹線ホーム配置である。
東海道本線、小田急は地上にホームがあり、コンコースと改札は3階に設置されているのに対し、
JR東海の東海道新幹線は1階にコンコースと改札口がある。
東海道本線は箱根の険しい地形を嫌い、比較的緩やかな現在の御殿場線経由で建設された。
小田原は江戸時代には東海道五十三次の第九の宿場として栄えたが、東海道本線のルートから外れたことにより明治になって衰退していった。
そのため迂回ルートとなった東海道本線の国府津から熱海までを直接海岸ルートで結ぶ熱海線の建設が計画された。
1920年10月21日熱海線国府津−小田原間が開業し、同時に小田原は一般駅として開業した。
1925年3月25日には熱海線が熱海まで延伸し、1934年12月1日に直通ルートが正式に東海道本線となり、熱海線から東海道本線の駅となった。
1927年4月1日には現在の小田急電鉄にあたる小田原急行鉄道が新宿から小田原まで開通した。
1935年6月16日には現在の伊豆箱根鉄道大雄山線にあたる大雄山鉄道が開通した。
また同年10月1日に箱根登山鉄道が乗り入れ、在来線の現在の形が出来上がる。
東海道新幹線が東京から新大阪まで開業した1964年10月1日に同時に新幹線の駅も開業した。
東西自由通路はアークロードという名称が付けられており、
そこには二宮尊徳の銅像が建っていて、以下のように書かれていた。

    二宮尊徳(金次郎) 〔一七八七〜一八五六〕

  郷土の偉人、二宮尊徳(金次郎)は、今の小田原市栢山に生まれ、
  少年時代に両親を亡くして苦労しましたが、それを乗り越えて立派に成人し、
  後に栃木・茨城・福島・神奈川など各地で多くの村の復興に尽力しました。
  また「どんなものにも徳がある」「譲って損なく奪って益なし」など、
  たくさんの教訓を残して、今でも多くの人から尊敬されています。

また西口には北条早雲の銅像が建っており、
そこには以下のように書かれている。

    北條早雲公略伝

  北条早雲公(伊勢新九郎長氏のち宗瑞、早雲庵。法名・早雲寺殿天岳瑞公)は、
  戦国時代に相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関八州のほか、伊豆、駿河に勢力を及ぼした小田原北條氏五代の租である。
  「北条記」によれば、明応四年(一四九五)伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、
  牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけた、いわゆる「火牛の計」の戦法を用いて大森氏を討ち破ったという。
  その後小田原は、九六年間にわたり北条氏の城下町として繁栄し、東国一の都市に発展した。
  終生伊勢姓を名のっていた早雲公の出身地は京都、あるいは備中、あるいは伊勢ともいわれている。
  一時、室町幕府に随身していたが、のち駿河へ下って今川氏に身を寄せ、そこで卓抜な才知と果敢な行動力で頭角をあらわし、
  やがて伊豆、相模の二国を支配する大名になった。
  そして民政にもよく配慮をしながら、周到な計画性をもって国造り、町づくりをすすめたという。
  小田原城には嫡男の氏網公を住まわせ、自身は伊豆にあって背後の守りをかためていたが、
  永正一六年(一五一九)八月一五日、八八才の天寿を全うして韮山に没した。
  戦国武将としてはめずらしい長寿であった。
  また北條姓は二代氏綱公から用いられた。
  早雲公は、東国の戦国時代に幕を切って落とした一代の風雲児と評され、
  一般には乱世を生き抜いた猛々しい武将という印象を与えている。
  しかし、伝来の北條家の家訓「早雲寺殿二十一ヶ条」において、早雲公は、身を慎み、礼を重んじ、質素倹約を旨とすべきと説き、
  学問、歌道に親しむことを奨励している。
  実際には聡明な教養人であり、また公私にわたる日常生活においても、つねに細心の注意を怠らなかった老練な苦労人でもあった。
  菩提寺金湯山早雲寺は箱根湯本にあり、当初は早雲公、氏綱公の二代をまつっていたが、
  その後氏康公、氏政公、氏直公をも加え、北條五代の霊を合祀している。

                                      北条早雲像建立期成会


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撮影時刻 2004/10/02 08:50:32

伊豆箱根鉄道大雄山線小田原駅。


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撮影時刻 2004/10/02 08:52:01
JR改札口にある小田原提灯。


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撮影時刻 2004/10/02 08:55:23
小田原駅西口。


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撮影時刻 2004/10/02 09:00:04
西口にある北条早雲像。


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撮影時刻 2004/10/02 09:03:04




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