700.JR山陽本線三原駅



JR山陽本線三原駅は山陽新幹線の停車駅でもあり、また呉線の始発駅でもある。
開業は1894年6月10日に山陽鉄道が広島まで延伸時に同時に開業した。
それ以前は現在の糸崎駅が三原駅を名乗っていたが、この時に当駅を三原駅として旧三原駅を糸崎駅に改称した。
1906年12月1日に山陽鉄道は国有化され、
1930年3月19日には現在の呉線が三呉線として須波まで開業した。
山陽新幹線の駅が出来たのは1975年3月10日で、広島−博多間の延伸開業時である。
画像は南口で、ここの入口付近には「絹本著色登覧画図」のレリーフがある。
説明書きに配下のように書かれている。

 このレリーフは、享和2年(1802)に旧広島藩士で画家として著名な岡眠山が画いた「絹本著色登覧画図」の一部分の複製である。
 原画は、左に妙正寺全景を近景にいれ、東町の町並み、三原城、佐木島をはじめ 滴戸内の島々を遠望したものである。
 三原浅野家の菩堤寺である妙正寺の所蔵で、三原市重要文化財に指定される。(昭和38年12月17日)

説明書きには“岡眠山”には「おかみんざん」、“絹本著色登覧画図”には「けんぽんちゃくしょくとらんがず」とルビが振ってある。
西口は「西口(隆景広場)」と書かれてあって、小早川隆景の像があり、
高架下に駅名表示板もない出入り口がある。
この三原駅はもとも三原城本丸跡を横切るように敷設されているため、
高架が三原城本丸の石垣の上に組まれる形になってしまっている。
西口を出た直ぐのところに天主台石垣があり、そこには以下のような説明書きが書かれている。

   天主台石垣  (舘町)

 日本一の規模を持つこの天主台は広島城の天守閣なら六つも入るという広さを持つ。
 三原城が造られた一五六七年より約十年後に信長によって安土城が造られ、
 初めて天主台に天守閣が聳えるようになり、以後全国に流行 しました。
 然しこの三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想のない時代だったと考えられます。
 山城から平城に移行する時代のごく初期の城築です。
 この据を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。
 しかも余人は真似るべきではないと言われた「アブリ積み」という特殊の工法は、
 古式の石積形式を四百年経た舎日まで立派に伝えてあります。
 一七〇七年の大地震では、城内を役夫二万五千人を動員して修理した。
 しかし破損箇所は・・「元のごとく成りがたかりしを、伝石衛門(竹原市下市)をして築かしめられけるに、
 遂に築きおさめければ・・」とあるが、これは東北陵面のことと推測します。

北口はこの石垣の反対側に出ることが出来て、そこには「三原城跡 天主台跡」と書かれている。
また駅内部から天主台跡の上にも直接出られるようなっており、そこには以下のような看板が立っている。

  史跡
  三原城跡

 三原市館町・本町・天主台跡・大櫓及びこれらをめぐる壕、
 壕外六尺まで城町・五番櫓並びに船入跡・船入六尺まで
            昭和三十二年十二月十一日指定

 小早川隆景は、兄の吉川元春とともに、おいの毛利輝元を助けて中国統一を完成させて瀬戸内海の水軍を掌握していた。
 隆景は、天正年間毛利氏の広島築城と相前後して、沼田川口の三原の児島をつないで城郭を築きここに移った。
 三原城は海に向かって船入りを開き、城郭兼軍功としての機能を備えた名城で、
 満潮時には、あたかも海に浮かんだように見えたので「浮城」と、よばれている。
 小早川氏の移封後も、福島氏、浅野氏の支城になっていたが、国鉄山陽本線が本丸を貫き、
 今は天主台とそれをめぐる壕、及び五番櫓と船入り跡が残るのみである。
                                                         三原市教育委員会


画像 dd03714
撮影時刻 2005/03/06 09:45:58

JR三原駅西口の天主台石垣。


画像 dd03716
撮影時刻 2005/03/06 09:50:25
西口の小早川隆景像。


画像 dd03718
撮影時刻 2005/03/06 09:51:47




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