703.JR山陽本線下関駅



JR下関駅は島式3面6線の高架ホームを有する山陽本線の駅である。
山陽本線の終点であり、また本州の最西端の駅でもある。
東京から東海道本線、山陽本線と繋がった線路はここから先、関門トンネルを抜けて鹿児島本線に接続する。
ホームは3面6線だが、機回し線や通過線があるため、線路は10本となる。
1番線は通過線、2番線は機回し線となっておりホームはなく、
3番線、4番線が下関総合車両所に入庫するための降車専用ホーム、5番線が機回し線となっている。
6番線、7番線と8番線、9番線が上りホームとなっており、一部は山陰本線に直通する列車も使用する。
また7番線、8番線は関門トンネルを潜って鹿児島本線に接続する列車に使用され、
ここから先の線路はJR九州の資産となっている。
10番線は通過線であってここにもホームはない。
画像は旧東口でこの三角屋根は下関のシンボル的存在でもあったが、下関駅放火事件により消失してしまった。
下関駅放火事件は2006年1月7日午前1時50分頃に無職の男性が駅に放火し、東口の三角屋根を含む駅舎が全焼した事件で、
犯人は過去にも放火未遂事件を起こしており、生活保護を受けられなかったことで刑務所に戻りたいといのが動機だとされている。
高架上のホームや線路、架線には被害はなかったものの、復旧までに2日間の運休を余儀なくされ、
また駅舎の損失も5億円とされ、犯人の男性は懲役10年の実刑が言い渡され、現在は刑務所に服役中である。
JR西日本管区はこの下関までで、関門トンネルはJR九州管区となる。
山陽本線は関門トンネルを越えた門司までであるが、2社の境界線は本州側にある。
下関といえばフグが有名であるが、東口にはフグの日時計が設置されていた。
関門トンネルの開通は戦時中の1942年11月15日である。
九州には軍事的な重要拠点である小倉や佐世保などがあり、
本州と九州の直通トンネルの開通は輸送力増強の意味からも軍事的重要事項だった。
そして関門トンネルが約3.6kmという短い区間ながら、世界で初めての海底トンネルということになる。
日本は当時植民地としていた満州までの海底トンネル設置まで夢想していたといわれている。
鉄道後進国であった日本がその後の努力により、世界初の海底トンネルを開通させたことは高く評価したいが、
それはまた戦時下という特殊な事情が後押ししたこともまた事実である。
1901年5月27日に山陽鉄道が厚狭から延伸して開業した。
当時は「馬関」という駅名で、「ばかん」と読んだ。
開業当時は現在より東側に位置し、当時の市名は「赤間関」と書き、「あかまがせき」と読んだが、
その略称が「馬関」だったので、駅名もそのまま馬関となった。
1902年6月1日に市名が「下関」に改称されたのに合わせ、駅名も下関となった。
下関は九州や朝鮮半島への連絡を担う拠点駅として位置づけられ、関門連絡船・関釜連絡船の発着駅となる。
1906年12月1日に山陽鉄道は国有化され、1909年10月12日の線路名称制定により山陽本線の所属となる。
1933年2月24日には山陰本線が全通、1938年11月27日には路面電車である山陽電機軌道線が乗り入れた。
1939年9月に鉄道省が「東京・下関間新幹線建設基準」を制定、当時“新幹線”という言葉は一般受けせず、
マスコミでは「弾丸列車」という紹介のされ方をした。
1942年7月1日に関門トンネルが開通、同年11月15日に駅施設を現在地に移転、
下関のシンボルとなった三角屋根の駅舎もこのときに建設された。
移転当時は山陽電気軌道は乗り入れなかったが、戦後の1946年12月25日に再び乗り入れを開始する。
しかし1971年2月7日には山陽電気軌道線は廃止された。


画像 dd03741
撮影時刻 2005/03/06 15:44:26

三角屋根の面影を残した新東口駅ビル。


画像 dd23451
撮影日時 2017/08/18 12:37:51
放火事件後に新築された新西口駅ビル。


画像 dd23450
撮影日時 2017/08/18 12:35:14
JR下関駅旧西口。


画像 dd03742
撮影時刻 2005/03/06 15:45:51




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